ゴッホのポストカードごご紹介します。
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今、大阪の美術館で今月8月31日までゴッホ展が開催中ですね。
最近それをしりましたので、改めてゴッホのポストカードをご紹介させていただこうと思います。
フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ。
オランダ語: Vincent Willem van Gogh、1853年3月30日 - 1890年7月29日)は、オランダのポスト印象派の画家。
主要作品の多くは1886年以降のフランス居住時代、特にアルル時代(1888年 - 1889年5月)とサン=レミでの療養時代(1889年5月 - 1890年5月)に制作されている。
感情の率直な表現、大胆な色使いで知られ、ポスト印象派を代表する画家である。
フォーヴィスムやドイツ表現主義など、20世紀の美術にも大きな影響を及ぼした。
オランダ人名のファン(van)はミドルネームではなく姓の一部であるため省略しないとのことです。
また、生涯独身であったとのこと。
ゴッホは、1853年、オランダ南部のズンデルトで牧師の家に生まれた(出生、少年時代)。
1878年末以降、ベルギーの炭坑地帯ボリナージュ地方で伝道活動を行ううち、画家を目指すことを決意した(聖職者への志望)。以降、オランダのエッテン(1881年4月-12月)、ハーグ(1882年1月-1883年9月)、ニューネン(1883年12月-1885年11月)、ベルギーのアントウェルペン(1885年11月-1886年2月)と移り、弟テオドルス(通称テオ)の援助を受けながら画作を続けた。オランダ時代には、貧しい農民の生活を描いた暗い色調の絵が多く、彼自身はこのような人々を描きたいとしており、ニューネンで制作した『ジャガイモを食べる人々』はこの時代の主要作品。
1886年2月、テオの住まいに押しかけるようにしてパリに移り、印象派や新印象派の影響を受けた明るい色調の絵を描くようになった。印象派や新印象派の画家と交流も持ち、絵を交換するようにもなった。この時期の絵には花の絵も多く、また『タンギー爺さん』などが知られる。
日本の浮世絵にも関心を持ち、収集や模写を行っている(パリ時代)。
1888年2月、南フランスのアルルに移り、『ひまわり』や『夜のカフェテラス』などの名作を次々に生み出した。南フランスに画家の協同組合を築くことを夢見ていたため、テオの働きかけで同年10月末からポール・ゴーギャンが来て共同生活が始まったが、次第に2人の関係は行き詰まり、12月末のファン・ゴッホの「耳切り事件」で共同生活は解消され、発作に苦しみながらアルルの病院への入退院を繰り返した(アルル時代)。
1889年5月からはアルル近郊のサン=レミにある療養所に自ら望んで入所した。
発作の合間にも『星月夜』など多くの風景画、人物画を描き続けた(サン=レミ時代)。1890年5月、療養所を退所してパリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに移り、画作を続けた(オーヴェル時代)。
医師で画家のポール・ガシェと交流を持つ。ここで50点の素描と74点の油彩画を描く。
生前に売れた絵は『赤い葡萄畑』の1枚のみだったと言われているが(他に売れた作品があるとする説もある)、晩年には彼を高く評価する評論が現れていた。
ゴッホは約10年の活動期間の間に、油絵約860点、水彩画約150点、素描約1030点、版画約10点を残し、手紙に描き込んだスケッチ約130点も合わせると、2100枚以上の作品を残した。有名な作品の多くは最後の2年間(アルル時代以降)に制作された油絵である。
一連の「自画像」のほか身近な人々の肖像画、花の静物画、風景画などが多く、特に『ひまわり』や小麦畑、糸杉などをモチーフとしたものがよく知られている。印象派の美学の影響を受けながらも、大胆な色彩やタッチによって自己の内面や情念を表現した彼の作品は、外界の光の効果を画面上に捉えることを追求した印象派とは一線を画するものであり、ゴーギャンやセザンヌと並んでポスト印象派を代表する画家である。またその芸術は表現主義の先駆けでもあったとのことです。
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クリの木の花
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サントマリーの浜辺の釣り船
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ひまわり
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モモの木
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夜のカフェテラス
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アルルの見える花咲く果樹園
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糸杉と星の見える道
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ヒナゲシと蝶
各それぞれ
1枚税込198円
この機会にぜひ
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高級筆記具売場
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